№105 「美味しいが基本」志田水産の経営革新

さわやかインタビュー
これからも切磋琢磨し、共に進化向上してまいります! !志田社長と山﨑リーダー、志田水産の皆様を囲んで生涯青春! !

2024年10月28日㈪

株式会社 志田水産 代表取締役 志田 朗 様

多くの出会いや経験をした大学時代

― 志田社長の生い立ち、学生時代のエピソード、卒業後のご経歴と大きな転機になったことなどがあればお聴かせください。―

 私はこの会社の2代目でして、父が創業者となります。父は静岡県の庵原郡由井(現静岡市)、母は群馬県佐波郡(現伊勢崎市)の生まれです。父は18歳の時に活気に満ちた築地市場に憧れ上京。寒い日も、雨の日も、朝2時から魚と共に市場の中を駆けずり回る毎日を過ごし商売の基礎を身に付けていったとのことです。その後、商売好きで豪快な性格の父と厳しい家庭で育った堅実な母が出会い、結婚。そして魚の商売をしながら様々なお店を開いていきます。私が生まれた時はなんとパン屋でした。すし屋、雑貨店、居酒屋等と様々な商売をしていくのですが、どちらかというとそれらは副業という感じで、それが続けられたのは堅実な母がいたおかげだと思います。
 志田水産は私が中学生だった1990年に創業することになります。私は姉が一人おりまして2人兄弟で育ちましたが、常に隣に働いている両親の姿があったことを記憶しております。地元の小学校、中学校を卒業し、明治学院高校そして成蹊大学へと進学しましたが、大学時代の一番特徴的だったことは、学業を頑張ったというよりは旅行を通じて多くの出会いや経験をしたことです。
 当時、作家の沢木耕太郎さんの『深夜特急』に憧れて、毎年夏2か月、春2か月バックパック一つで東南アジアを中心に、南米など旅をしていました。当時は非常に円が強かったのもあって、一泊泊まると1ドルでしたから、学生でも2か月ぐらい旅行することが出来る時代でした。日本にいる時はとにかくアルバイトをしてはお金をためて海外に行くという学生時代を送ったことが学生時代のエピソードですね。

志田水産への入社と経営革新スタート

― お父様が創業された志田水産に入社された経緯と、当時の水産業界の状況と志田水産の経営状況について。
 また、志田水産の経営を託された志田社長が旧態依然とした水産業界のあり方に疑問を持ち、様々な改善活動を始められました。旧工場時代の経営革新についてお聴かせください。―

 大学卒業後は東京の水産メーカーで働いておりました。ファブレスメーカー(※自社で生産設備を持たず、外注先に製造委託しているメーカーのこと)であった為ベトナムや中国等海外拠点での仕事が多かったです。学生時代の経験から異国の環境に順応することだけは他のスタッフよりも自信がありました。年間で200日以上を海外で過ごすという生活が数年続きました。
 仕事の内容としては、ニュージーランド、アラスカを始め世界各国で漁獲された原料を買い付け、中国やベトナムの工場に送り、そこで水産加工品の製造を行います。魚の処理から切身の切り方、味付け等々、商品設計について打ち合わせを行います。その過程で現地会社の社長や管理者の方々と話す機会も多かったので、20代で若いながらもそういった方と一緒に仕事をさせていただけたことは非常に大きな経験だったと思います。
 また、生産管理、原料買い付け、商品開発、販売手法また経理処理に至るまで様々な業務に携わることができたことも今の私にとって大変大切な時間であったと考えております。
 2001年~2007年までの6年間の勤務においては、仕事に夢中で没頭し会社から休日を取るように指導されるほどやりがいを感じる仕事でした。
 当時は家業である志田水産のことを考える余裕もなく目の前の仕事に邁進しておりましたが、2006年に転機が訪れます。その年の正月に志田水産の従業員に呼び出され、跡継ぎとして早期に戻ってきてほしいとの話をもらいました。従業員が将来に大きな不安を感じるほど、当時は課題が山積みでした。父、母の創業時の思いや従業員の気持ちを重く受け止め、跡継ぎとして大きな挑戦をすることを決意致しました。
 志田水産入社後、最も苦労したことは資金面の課題でした。そして少しでも早く利益体質の構造にする必要がありました。とにかく全てを変える必要がありました。旧工場は倉庫を改造して作った工場でしたので、空間的制約が実に大きく、生産改善に対して大きな障壁となっておりました。これをむしろ逆手に取り、「必要は発明の母」を合言葉に、狭く、使いにくい空間の中でどうやっていくか知恵を絞り、改善をしていきました。
 まず着手したことが「不良在庫の山」で身動きの取れない冷凍庫です。冷凍庫の中の原料を取りに行くのですが、登山用のライトを頭につけて段ボールの山をよじ登り、まさに宝探しの様相です。数量にして2トン車3台分を処分し、「不良在庫の山」は機能的な冷凍庫に生まれ変わりました。その際、父は物がない環境で育った世代ですので、大反対するのは当然でした。父はなぜ処分するのか、どこかに売れるかもしれないとの一点張り。私にとってはこの冷凍庫を一刻も早く機能させることが改革のスタートに必要なことでした。
 大きな議論の末、同意を取り付けたわけですが、今思えば、これが最初の5Sだったのではないかと思います。冷凍庫が機能し始めたのと同時に、受注から製造そして出荷に至る帳票の見直しを行いました。まさに帳票の整理整頓です。それまではお客様からのご注文をメモ書きし、都度製造現場に渡すというやり方です。昔の魚屋さんのように「この魚の切身を3枚下さい」と言われてそのメモを職人に渡すといった感じです。新たな試みとして始めたことは、受注したものはすぐに製造現場には反映させず、まずは受注伝票に記入します。そしてそれらを出荷日や製造日ごとに仕分けをし、そこから生産指示書、ラベル、納品書、出荷伝票等に反映させるという帳票の一元化を図りました。手書きや転記等も多い原始的な手法ではございましたが大変大きな改善となりました。
 ちなみにこの仕組みは17年たった今の弊社のシステムにおいても、その基礎となっております。「乾いたぞうきんを絞る」とはいいますが、当時の志田水産は、水をたくさん含んだぞうきんの様に改善の余地がたくさんございました。私の目から、水産業界は「利益の出にくい産業」「相場変動が大きく、安定収益や安定稼働が困難」といった多くの他力本願型の経営が主流であるように見えていたので、業界の「常識」に捉われず、新しい水産加工業を立ち上げる、という理想を掲げ、改革をスタートしていきました。

大学時代はバックパッカーでした。㈱志田水産 志田 朗社長

新工場建設プロジェクトについて

― 旧工場で水産業界の常識を打ち破る様々な経営革新に取り組み、特出した成果を上げられました。満を持して新工場建設PJを立上げ、本格稼働への準備を開始されるまでの志田水産の成長の過程をお聴きかせください。―

 「銀サケの加工については、日本で一番の技術をもった会社を目指していく」というビジョンを掲げました。
 私が入社した当時は年商で1億円程度でございましたが、売り上げの増加に伴い、売上高8億円を想定した工場の増築を計画致しました。当時まだ会社には多くの借入金があり大した利益も出ていなかったので、私の両親は当然大反対でございます。結果的に私が代表権を持ち私の責任で進めることで両親との合意に至りました。
 この時に私が代表に就任する形となり、結果として世代交代が進んでまいります。2015年の事でした。今思えば若さゆえの楽観的な事業計画に対して金融機関の方々に厚いご協力をいただいたこと等、初めての大きな設備投資は大変良い経験となりました。そしてそのわずか5年後の想定を超えた旧工場の売上高13億円は、本当に私自身も信じられない結果となりました。従業員の知恵やガンバリに感謝するとともにまさに「必要は発明の母」でございました。
 増築後におきましては、スペースもさることながら昨今のHACCP対応、衛生管理等の面から旧工場には限界を感じておりました。そして2019年の初めに30代を中心に新工場のプロジェクトチームを発足致しました。一から食品工場を作る。工場は水産工場の慣習に捉われない工場とする。当然投資額は2015年の増築の時とは比べ物にならない金額となりました。
 紆余曲折を経て2021年1月に新工場の稼働がスタート致しました。全てが初めての経験ばかりで、新工場の建設はチームメンバーにとって大きな成長につながりました。他方、私の新工場への管理不足やの考えの甘さから、初期に大混乱を発生させてしまいました。しかし、この混乱はマイナス面ばかりでなく、新工場の立ち上げを担った社員の求心力や自信に大きく寄与したと考えています。正直、社員の実力以上の事案を何とか克服できた、という点で当社にとってきわめて大きな転換点であったと思います。

5Sとの出逢い

― 新工場建設の設計まで出来た着工寸前で5Sと出逢い、足利流5Sの指導者・木村温彦先生をご紹介しました。志田社長は5Sの本質を掴まれ、新工場の設計を見直し着工を延期する大きな決断をされました。
 5Sとの出逢いと決断に至る経緯をお聴かせください。―

 関根社長との出会いは今でも鮮明に覚えております。旧工場時代に新日本ビルサービス様に清掃をお願いさせていただきましたことがきっかけで、関根社長に工場見学に来ていただきました。その時に「食品工場の割には汚いね」と率直なご意見をいただきました。
 その際に5Sのお話を頂戴し、木村先生とお話しをする機会をいただきました。5Sに触れる中で、それまでは新工場の設計においては、旧工場での仕組みや思考の延長線上で、「ここは2倍にしよう。ここは3倍にしよう。」といった形で設計を行っておりましたが、5Sの発想の元、回転率を上げる、滞留させない、在庫を持たない等々の考え方に基づき設計を大幅に変更しました。
 今の工場の生産性において大変大きな影響があったと確信しております。そして新工場立ち上げ時の混乱期におきましても、5Sで使用するパイプツールによる改善手法に大いに助けられました。本当に感謝しております。

新工場建設において中心メンバーとなったカイゼン・育成チームのリーダー山﨑様は新日本グループ5S養成講座の修了生

新工場移転と業務開始、移転時の混乱について

― 2021年1月、新工場に移転し業務を開始されました。思いもよらず移転時の混乱と苦労が多発し、志田社長自ら工場に入り「必要は発明の母」必死の思いで幹部の皆さんと困難を克服され、その時も5Sが大きなヒントになりました。
 移転時の混乱を如何に乗り越えてこられたか、お聴かせください。―

 旧工場から新工場への移転をした際、移転後1か月程度は、生産量を調整し通常の80%の生産量で稼働を開始いたしました。つまり旧工場であれば定時前に終わるべき生産量です。しかしながら夜10時を過ぎても終わりません。多くの従業員からの「旧工場の方がやりやすかった。どうしてこんなに不便な工場をつくったのか。」という声に、私を含めた新工場チームメンバーは大きな悲しみと悔しさを感じる毎日を過ごしました。生産性の数値においては旧工場の半分といった状況。一大事です。
 この混乱の原因は、新工場での生産の仕組みの中で要点をおいた、同期産、混流生産、機械との融合、連続式といった新たな取り組みがまったく機能せず、むしろ生産の障害となっておりました。大きな生産改善につながることを想定した仕組みは、その時は机上の空論となりました。新工場チームメンバーで知恵を絞り議論を重ね、この状況を乗り切っていくわけですが、新しい連続式冷凍機の安定稼働と同期生産に絞って対策、努力したことで、困難を克服できたと理解しております。実際のところ、初めての機械主体の生産工程は皆経験のない取り組みです。いかに試行実験をやったといっても、所詮「実験」であることを、再認識しました。本番と試行や実験とは、全く違う。「実験でうまく行ったので、本番もうまく行く」の安直な判断が、いかに甘いことか思い知らされました。
 この学習は今でも生きていて、未だ未だ緒についたばかりですが、重要な判断時には細かく検証して、結論をだすことが少しずつ習慣化して来つつあると実感しております。

新工場価値最大化への取組み

― 移転時の混乱を乗り越えて、同期生産の開始、機械との融合、製販会議新設による平準化安定化など志田水産の経営革新が本格化します。志田水産躍進の経営革新の取り組みをお聴かせください。
 また、技能実習生の入社による戦力化は志田水産様の経営の大きな柱になっていると思います。ここまで技能実習生が生き生きと活躍し成果を上げている成功要因をお聴かせください。―

 品質面においては「美味しい」が基本という方針を掲げ、原料の解凍や熟成、手間をかけた職人のよる手仕事など、この工場には「美味しい」を生み出すたくさんの手法を取り入れております。この点は最も時間やコストをかけて取り組んでいる点でございます。生産性改革にあっては、工業製品の生産方式の学習に力を入れました。
 「原料が自然物なので、毎回原料が異なる」ことを言い訳にした業界の生産方式に挑戦するかのように、「工業製品の生産方式を当社に導入できないか」を必死で考えました。その中から、想像ですが、おそらく業界の工場ではほとんど導入されていない生産方式を当社は活用しています。同期生産、平準化、標準化、受注の品質等々、また計数機の考え方も業界においては大きな改革であったと思います。技能実習生について我々は、様々な取り組みで『教育』ということに力を入れております。例えば送り出し機関にミャンマーとラオスがありますが、送り出し機関の学校と、我々の方針については『配属=即戦力』という共通意識を持っております。半年間の語学研修の中で、オンラインによる水産加工の教育をしていきます。現地にて実際に出刃包丁を使っての切身の訓練を通じて入社す
る頃には、切身が切れるような技術レベルまで持っていきます。同時に会社のルールや生産の仕方などの勉強もしていただきます。即戦力ともなれば会社としても、即戦力としての給料を払うことができ、また実習生にとっても日本に来たと同時に高い賃金がもらえるので、お互いにメリットがあります。
 このような取り組みをしているところは他社とは違うかもしれません。つい先日も、ある国の送り出し機関に、志田水産用の特別な研修カリキュラムを組んでいただくことにご了承をいただき、現在進行中で成果に期待しているところです。

新日本グループの評価と期待すること

― おかげさまで新日本ビルサービスと武蔵屋共に、志田水産様と有難いお取引を継続頂き、5S活動の同志でもあります。これからも切磋琢磨し共に成長するために、新日本グループへの忌憚の無い評価と期待することをお聴かせください。―

 新日本ビルサービス様には清掃、武蔵屋様には作業着のクリーニングをしていただき感謝しております。早朝出勤すると、武蔵屋様の従業員の方にお会いすることがあるんですが、皆さん、前向きに一生懸命やられていて、素晴らしいと感じているところです。
 もちろん、それらの業務については大変満足をしておりますが、さらには5Sを教えていただきましたように、我々に様々なご指導をいただけますことに深く感謝を申し上げますとともに、今後とも多くのことを吸収して参る所存で御座います。宜しくお願い致します。

仕事と人生において大事なこと

― 水産業界の変革者である志田社長が仕事と人生において大事にされていることをお聴かせください。また多くの社内報の読者へ熱いメッセージをお願いできれば幸いです。―

 実は私は、いかに出会いが大切であるかを痛感しております。志田水産のロゴマークも「結ぶ」とか「つなぐ」といった出会いをコンセプトに作りました。私の父も「出会いによって、俺は救われてきた」とよく言っておりましたが、振り返ると実に多くの方々に、ご指導いただき、ヒントをいただき、ここまでやってきて「今があるんだ」と改めて、実感しています。
 もちろん従業員からもひたむきなその頑張りに勇気をもらいますし、技能実習生からも日本人に決して劣らない勤勉性や生産能力に、一種驚きを覚えます。出会いや人との取り組みを人生においても仕事においても一番大事にしていきたいですし、永いこれからも、決して一人で実現出来る未来では無いことを肝に銘じて、従業員ともども精進したいと存じます。

志田水産の夢とビジョン

― 志田水産の未来に向けた大きな夢とビジョン(実現したい未来像)をお聴かせください。―

 水産業界においては、近年の地球温暖化や環境の変化により原料事情が悪化しており、厳しい状況が続いております。しかしながら日本が古来から育んできた食文化の中で魚は重要な存在であると理解しております。
 私の好きな中国の言葉に「疾風に勁草を知る。」というのがあります。要は勁草という「強い草、丈夫な草」が「疾風」という猛烈な風が吹いたときに、強い草だけ残るという意味ですが、厳しい環境の中においても、自分たちの努力を重ねてまいります。そして魚を通じて豊かな食文化に貢献できる集団を目指してまいります。

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