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№92 「商 品 の 物 語 を つ む ぐ バ イ ヤ ー か ら 、社員の物語を支える社長へ」
令和3年7月21日(水)
株式会社サビアコーポレーション
代表取締役社長 守屋 正人 様
首都圏に133店舗を展開するスーパーマーケットチェーン『いなげや』様─
─その店舗の企画設計から保守管理までを一手に担うグループ会社『株式会社サビアコーポレーション』の代表取締役社長に就任された守屋正人様に、ご自身のいなげや時代のご経験から、これからの社長としてのビジョンを伺いました。
のびのびと育った幼少期に、商売の楽しさに触れる
僕はずっと生まれも育ちも山梨県で、のどかな田舎の中でみんなと和気あいあいと育ってきました。なんの変哲もない幼少期だったと思いますが、振り返ってみて確かに今に繋がっているなと思うのは、地域の子ども会での商売の経験です。
その子ども会は、今では考えられないほど子どもたちの自由にさせているところでした。だから、僕たちもはりきって考えます。例えば『お祭りのときにどうやったらモノを売って自分たちのお小遣いを稼げるか』など。
色々なアイデアが出てきましたね。御札を作ったり、おでんを作ったり、カエルを捕まえて売ったり、果てにはニワトリをさばいて串を打って焼き鳥にしたりと、何から何までやりました。おでんや焼き鳥の串は、自分たちで竹を切ってきて、それをナイフでそいで手作りまでしていましたから、当時の僕を含む子どもたちの真剣度はなかなかのものでした。
そうやってうんうん唸って考えて作り出した商品を、自分たちで大人相手に売っていくんです。大人たちも、子どもたちが売りに来るから「何か買ってやろう」という雰囲気で、みんな買ってくれるんですよね。そうして自らの手で稼いだお金で、自由に飲み食いして楽しんで……この経験から、子どもながらに自分たちで考えてものを売ることの楽しさを知りました。
ただ、今思えば、結構やんちゃなことをしていたなぁ、とも思いますね。当時は、僕が小中学生の頃ですから、4,50年前。そんな時代であっても、ニワトリを子どもがさばいて食べていいのか、カエルを捕まえて売っていいのか…… まずいことをしていたんじゃないのかな、とふと思うことがあります(笑)。でも、それを当時の地元の大人たちが、子どもたちに全部任せて見守っていたというのは、本当にすごいことだと思いますし、それが今の僕の原点になっているのですから、すごくありがたかったな、と思います。
一度山梨県を離れた大学時代が、山梨愛を強くした
生まれてから高校生までずっと山梨にいたものですから、一度外の空気を感じてみたくて、大学は京都の方に行かせてもらいました。当時興味があった仏教系の大学を選んだのですが、神社やお寺は回るけれども、勉強はたいしてせず、サークルにずっと入り浸るか、そうでなければバイトか、飲み屋街のある三条四条あたりに集まるか……というような、一般的な大学生活でしたね。
サークルは、幼少期に感じた商売の楽しさが忘れられず、広告研究会というところでマーケティングの勉強をしていました。それも相まって、就職を考える時期には「商売がしたい」そして「売るなら食品」という考えから、スーパーマーケット業界に絞り込んでいました。そして、大手スーパーよりは地場スーパーがいいなと思い、ではどの地域にしようか、というところで、地元の山梨に帰る選択肢が思い浮かびました。やっぱり、山梨がなんか落ち着くんですよね。山も川もあって、休みの日は自然に戻れる感じがして。
そこで当時、山梨から通えるスーパーで一部上場企業と言ったら「いなげや」しかなかったので、必然的にいなげやを志望することになり、そのままありがたいことに入社する形になりました。当時は80店舗ほどと、かなり大きな規模になっていたころでした。
店舗配属後、強烈な先輩上司に刺激を受ける
入社後最初に配属されたのは、本社のすぐ近くにあるいなげや立川幸店でした。当時は社内で一、二を争うほどの売れ行きの良い店でした。そこの副店長だった方はオリジン弁当の社長に、僕の直属の上司だった方は三浦屋の社長に、店長は北海道出身で、一年後に北海道に戻ってコンビニを作りました。そういった独立心旺盛で強烈な人たちに囲まれていた新人時代でしたね。
そういった先輩方なので、アイデアや熱量も普通とは違います。特に印象深かったのが、当時立川に住んでいた『サキちゃん』という心臓に持病を持った子どもへの、店を挙げての募金活動です。「サキちゃんがアメリカで手術を受けられるように、店の売上を全部募金するんだ!」と、利益とは別の目標に向かってみんなでやっていく──それを体感できたのはすごくいい経験だったと思います。無我夢中で一致団結して頑張っていたころの、あの周りの人たちの姿やその熱量は、今も鮮明に自分の中に残っています。
その頃の僕の担当業務はというと、幅広かったですね。今は『精肉』や『鮮魚』といった、商品の種類に応じた担当分けが主流ですが、生鮮もの──肉も干物も、卵や牛乳、納豆といったデイリー関係も含めて、自社のセンターから届くすべてを担当していたのです。
当時のいなげやは、皆さんがよくイメージする、店内で肉を加工・パックする『インストア方式』ではなく、自社で作ったセンターでパッケージまで済ませる『アウトパック方式』だったのです。そのため、本当に何から何まで自分の担当部署に商品が流れてきて大変でした。
精肉部門に異動、辛苦の食肉学校時代
しばらくすると、いなげや全体がインストア方式への転換期へと入っていきました。その際に、アウトパックのグロッサリーに残るか、インストアの精肉に行くかの選択で、僕はたまたま精肉の方を選び、肉に本格的に携わるようになりました。
それからすぐに、大きな転機が訪れます。「食肉学校に行ってもらうことになったから」と、その学校が始まる1週間前に突如として言い渡されたのです。茨城の土浦にあるプリマハムの食肉学校で、半年間勉強してきなさい、と。
当時、僕は26 歳。結婚して、妻のお腹に第一子がいる大事な時期なのに、半年間単身赴任なんて、会社は無茶苦茶なことを言うなと思いました。会社の命令だったので従いましたが、本当に嫌々でした。
その食肉学校は、言葉は悪いですがある種、刑務所のような環境でした。70人ほどの同期がいて、頭髪は坊主、制服は詰襟、男5人1部屋の共同生活。朝6時起床、走り込み、腕立て伏せ、ラジオ体操を済ませて朝食。午前中の解体の実習では、刃物を使うのですごく緊張して疲れるのに、午後はひたすら講義で、みんなどうしてもウトウトして……寝ているのが教官にバレると、罰として同じ部屋のみんなでグラウンドを何周も走らされた記憶があります。……と、今の時代なら訴えられるのではないかと思うほどのスパルタでした。
1日の授業が終わるとへとへとになるのですが、部屋に戻った後はみんなで卒業試験に向けて復習をしました。当時はベニマルやヨーカドー、ダイエーなど、名だたる大手スーパーの中でも優秀な精肉の人たちがこの学校に送り込まれて、同期の中で3名だけが獲れる賞を狙ってきていました。その人たちなんかはもっとすごくて、夜中もずっと勉強していましたね。
僕は体育会系が大嫌いで、ずっとこういうのを避けて生きてきたので、このような文化の中にいることを半年間も強制されたのは本当に辛かったです。すごく痩せましたし、トラウマにもなりました。一番のトラウマは、卒業論文代わりの、解体手法を伝えるための絵を描く課題です。線画はすんなり描けるのですが、問題はその後の色塗りです。水性のボールペンで、塗りつぶすのではなく点を打って慎重に色を付けていきます。真夏の部屋の中、その上に一滴でもぽとっと汗が落ちると、途端に色が滲んでぶわっと広がって、最初からやり直しになるのです。もう根気や精神力の世界ですよね。その辛さったら……今でもたまに夢でうなされる時があるんですよ!
ただ、そんな辛い半年間も、仲間がいたから頑張れました。卒業時には、学校で最後のお別れ会が開かれるのですが、ろうそくを見ながら、大の男たちがみんなそろって泣くんです──辛かった学校生活を思い起こしながら。あの涙は忘れられないですね。みんな全国からきているので、学校を出たら離れ離れになるのが名残惜しくて帰れない。そんな中、ちょうど妻が出産のために里帰りをしていて、一人なのをいいことに、僕のアパートに十何人もついてきて……みんなで騒いで夜を明かしたのはいい思い出です。翌朝、駅まで送った時に、みんなが駅のホームに立って校歌を歌い出して……恥ずかしいからやめろと言ったのですが、やめてくれませんでした(笑)。
あれは青春だったな。当時は何度も、辞めようと思った食肉学校時代でしたが、今振り返ってみればいい経験でした。
会社に戻ると、精肉チーフのポジションが用意されていました。数店舗のチーフを担当した後、副店長を経験し、次は店長かな?と思っていたところ、商品部に引き抜かれました。食肉学校で幸いにも3位以内に入れたのも大きかったと思います。
信念を持ったバイヤーへ
商品部では、主に牛肉のバイヤーをやらせてもらいました。当時のバイヤーのかっこよさは、今までの流れを否定して、新しい商品の開発に挑戦するところにあったと思います。会社もそれを推奨していたので、国内外問わず生産地に赴いての直接買い付けもやらせてもらえました。まだ、今のように輸入ビーフが確立されていなかった時代のことです。
僕は、商談のテーブルの上で、決まったものを定期的に買うことを決めるよりも、現地価格がいくらで、船賃がいくらで、保険がいくらで……と、直接実際の流通を体感することの方がバイヤーとして勉強になるし、なによりその仕事のやり方に魅力を感じていました。
そんな中、僕はアメリカで、牛にホルモン剤を打つシーンを散々見てきました。無理やり成長させるために、耳の後ろにピストル状のものでホルモン剤をうち込むのです。「こんな不自然な作られ方をしているものを、お客様に食べさせていいのだろうか?」と疑問に思っていたその頃、ちょうどいなげやのコンセプトが『安全・安心・健康』と、自分の思っていた方向になったのです。そこからは、水を得た魚のように、コンセプトに合う自然な食肉を求めて、国内外を飛び回っていましたね。もう本当に商品開発が好きで、夢中でした。一番の犠牲者は、牛なら牛、鶏なら鶏と、開発をやっている間、自宅で毎日同じものを食べさせられる家族でしたね(笑)。
商品の物語をつむぐ──挫折と栄光の商品開発秘話
海外での商品開発の例で言えば……アーミッシュという、アメリカで電気や機械を使わずにより自然に近い状態で生活をしている部族が生産している牛の話を聞きつけたとき「この牛だ!」と思いました。当時『アーミッシュビーフ』という名前で売り出したのですが、当然、通常の輸入ビーフよりも価格が高く、なかなか定着せずに失敗してしまいました。
また、他社と同じようにアメリカ産だ、オーストラリア産だと売り出していくのは芸がないと思って、より大自然に近いカナダに目を付けたこともありました。当時はサミットさんが一部の店舗で売っていたくらいの、少ない流通量でしたね。それで初めて、いなげやの100店舗でカナダビーフを売り出した形になります。
ただ、運の悪いことに、そう経たないうちにカナダでBSEが発生してしまいました。報道が出た日のことは今でも忘れません。全店から何千万というカナダビーフを一生懸命回収しました。あれは辛かったですね。せっかく開発した商品でも報道が出たら売れないですよね。結局は普通のアメリカ牛に変えていくことになり、大きな挫折を味わいました。
会社には、こうした損失を許容してくれる風土がありました。自分自身、挑戦しているからこそ失敗がある、と前向きに捉えることはできていましたが、その一方で、自分が決断したことで会社に迷惑をかけてしまっている、という気持ちはすごくありましたね。
失敗が多かった海外とは反対に、国産牛では成功もありました。
いなげやでは、早くからナチュラルビーフとして『短角和牛』を販売しておりましたが、ちょうど僕がバイヤーについた時には、既にこのブランドをやめることが決まっており、次の主力になる牛肉を何にするかを検討するタイミングでした。
短角和牛のコンセプト──夏山冬里方式による自然交配で安全・安心、当時主流の霜降り牛肉ではなく、赤身の美味しさを訴求していた──をできるだけ生かして、多くのお客様に国産の牛肉を食べていただきたいという願いを込めて、次の国産牛肉の主力を『ホルスタイン種』にしました。
抗生物質・ホルモンフリーを第一に、乳牛であるホルスタインから半分は生まれてくる牡牛を『国産健康牛』として販売しました。このホルスタインも『鼓脹症』という、胃にガスがたまる病気を予防するために『モネンシン』という抗生物質を使用するのが一般的でした。そのため、これを使用していない、またはこのコンセプトに賛同いただける生産者の開拓は大変な面もありましたが、順調にこの牛肉の販売を進めることができました。しかし、生産者側では、モネンシンを使用しないことによる事故率の上昇や、体重増加率が抑えられることによる生産性の低下により大変苦労もおかけしてしまったことと、時代が霜降り牛肉への完全な移行期と重なり、国産健康牛を継続できない状況になりました。小売業は『変化対応業』といわれるとおり、またしても次の主力になれる牛肉を探すことになったのです。
そこで目を付けたのが、ホルスタインに黒毛和牛を掛け合わせて生まれてくるF1(交雑種)です。これは何も、食肉として販売するためだけに掛け合わせるのではありません。ホルスタインは乳牛のため、お産を経験したメスが必要となるのですが、ホルスタイン同士を掛け合わせての初産は仔牛が大きくなるため、母牛にリスクがあります。そのリスクを避けるために、小さく生まれてくる黒毛和牛の種を付けるのです。
そうすると、生産者は母牛のリスクを低減しながら、生まれてくる牛を高く出荷することができ、スーパーマーケットは、黒毛和牛より安価な大衆牛として霜降り牛肉を販売でき、消費者は、安全・安心でおいしい牛肉を安定した価格で食べられる……と、三者にとって良い仕組みになるのです。これをもう真剣になって考えましたね。そしてホルスタインよりももっと味わいのある牛肉を……という意味を込めて『国産あじわい牛』として販売し、提供できたことにものすごく達成感を覚えましたね。
このように、商品一つ一つに、生産者の想いと物語があります。それを現地に行ってこの目で見ながら、一緒にいいものを創り出していくことがとても好きでした。安くたくさん作るために、牛や農場を犠牲にする方法はいくらでもあります。それを許すか許さないかはバイヤーにかかっていて……供給する側の倫理観がいかに大事かと、今でも強く思います。
現場をもっと理解する為の店長時代──立川幸店への凱旋
商品開発がそれはそれは楽しくて、ずっと商品部にいたいなと思っていたのですが、精肉部長から一度店長職を経験することになりました。現場のことをもっと理解しろという上司の配慮からの人事異動でした。
そうして配属されたのは、新入社員の時にお世話になった立川幸店でした。当時一緒に働いていたパートさんたちに「偉くなって帰ってきたね」なんてしみじみ言われてね。辞めた方までわざわざ集まってきて「あんたが店長になったっていうから見に来たわよ」なんて……嬉しかったですね。少しでも恩返しをしたいなと思いました。
着任したのは、3.11があった年でした。あの時は大変でしたね、殺気立ったお客様にみんなで一生懸命対応しました。また、その約1か月後の4月23日に改装オープンがあり、計画上止めることもできなくてバタバタでした。しかも、前日は大雨。ですが、奇跡的に当日は雨が上がって、なんと空に大きな虹がかかったのです。それを見て「この店は成功するに決まっている」とみんなで確信したのを覚えています。
その予感は的中して、それからずっと売上は前年を大きく上回り、近くに立川初出店のヤオコーさんというライバルができても、前年を上回り続けていけました。その喜びと、それに向かってみんなで一緒にやってきた一体感が、とてもよかったですね。みんなが店長をやりたがるのは、この一体感があるからなのだと納得しました。店長を経験したのはたったの1年8カ月ほどでしたが、すごく濃密な時間だったと思います。
青果部長を経験後、営業企画へ
その後は商品部に呼び戻されて、青果部長を任せていただきました。青果の経験はありませんでしたが、始めてみれば肉の時と同じ感覚で仕事をしていましたね。現地に行って確認して、味の納得のいくものを供給しようという基本は変わりませんでした。農家には農家の独特のノウハウがあって、行く先々で「うわ、こうなっていたのか!」と、目からうろこで。毎週、出張に行っていましたね。部長なのに席にいませんでした(笑)。
その後、全社の営業企画に5年間携わりました。チラシ制作から、販促手段の考案など、学生時代のサークルの経験が、意外にもここで役立ちましたね。そこで『移動スーパーとくし丸』をスタートできましたし、今はどこのスーパーに行ってもある、レシートの後に色々なクーポンが出てくる機械を、いなげやとして初めて全店舗に導入しました。大変ではあったけれど、新しいものを作っている感覚が、すごく楽しかったのを覚えています。
そしてサビアコーポレーションへ
バイヤーに店長に営業企画にと、楽しんで仕事をしていた中、サビアコーポレーションの責任者の任を命じられました。建設業は初めての分野なので、最初は戸惑いました。
サビアコーポレーションの使命は、いなげや各店が小売業に集中できるようにすることです。店舗では毎日のように、色々なところが壊れたり汚くなったりしているので、それを店長たちが困ることなく改善するのが役目です。
ただ、そこに当社の従業員たちが力を入れるには、社内のシステム整備が必要だと感じていて、この秋に管理会計システムを変更する予定です。こんな小さな会社で何千万もかけてシステムを入れ替えるのは大きな決断でしたが、今はあまりにも事務上の無駄が多すぎるので、必要経費だと思い実施する予定です。
例えば、リアルタイムの売上を調べようと思ったら、各部に訊いて回らなければならないような状態なのです。また、いなげやとの連結売上計上のための報告も、手動で一つずつ時間をかけて打ち込み入力していました。それを、システムでリアルタイム化・自動化していくことで、もっと本来の──いなげや店舗をサポートする仕事に時間を使おうよ、と。
コール業務も、今とは違う会社に委託して、入電があったお店の故障・依頼内容の結末を追えるようにすることで、それを施設管理台帳の更新の材料にしようと考えています。
そしてさらなるグループシナジーを実現するために、同じグループ会社であるウェルパークに対しても同じ対応が取れるようにしたいと思っています。130店舗分増える計算なので、今、ちょうど大きな変革期ですね。
将来の夢とビジョン
実は僕は今でも、チャンスがあるのなら商品開発をやりたいと思っています。最後はそこに戻っているかもしれませんね。それくらい好きな仕事でしたし、今も希望を持っています。
それと同時に、サビアコーポレーションの責任者としての夢も持っています。それは、社員の皆さんが人生を振り返った時に「サビアで働いていてよかった」と思ってもらうことです。
生活のために働くのは当然として、でも同時に、人は人に喜んでもらうために働いている側面があるはずです。特にサビアのようなバックオフィスの業務は、そういう意味合いが強いと思っています。「あなたたちが管理してくれているから、故障もなく、キレイな店舗が保たれている」と、店長から喜んでもらえるような業務をしてほしいと、人に喜んでもらえることが仕事の喜びなのだと、ずっと社員に伝えています。僕の使命は、その障壁を取り除くことだと思っています。その第一弾が、システムの入れ替えなのです。
新日本ビルサービスの評価と期待すること
訊かれるだろうなと思っていました(笑)。
実は今年から、サビアと一緒にいなげやグループの業務に携わっていただいているお取引先様の表彰制度を導入しようとしています。例えば、御社が清掃に入っている店舗の店長に、清掃の採点をしてもらっています。店長の声──現場の声を数値化して見える化するという取り組みを始めたのです。
これで品質を担保しながら、サビアという会社を通じて、色々なお取引先様が情報共有をして、切磋琢磨していく環境を、表彰制度の中に埋め込めたらいいなと思っています。コロナ禍でなければ、親睦も兼ねて1年に1度は皆さんに集まっていただいて、そういう場を作りたいと思っています。
関根社長、このデータ、めちゃくちゃ気になるでしょ(笑)。
関根社長 もちろん!(笑)
4月からの3カ月のデータを見ると、御社は100点満点中90点くらいですね。点数は嘘つかないなぁと思います。
関根社長 それは嬉しいですね。現場で頑張っているメンバーの励みになると思います。
それも狙いの一つです。頑張ってよかったと思ってもらえる仕組みにできたらな、と思っています。年明けの表彰式で「さすが新日本ビルサービス様、1位ですね!」と、お伝えできることを楽しみにしています!
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