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№94「仕事と趣味と人生」
令和4年2月21日(月)
アポクリート株式会社
取締役会長 犬竹 一浩 様
担任の言葉が人生の基盤になった
私は1942年、日高市の26代目の地主で、曾祖父が明治12年に創設した特定郵便局の長男として生まれました。小学校入学から高校卒業まで無遅刻・無欠席・勉強好きの典型的な『優等生』でした。しかし、今思えば勉強に傾倒するあり、人生において大切なものを見失いかねない子どもだったと思います。
特にそんな自分の性質が表れていたのが、川越高校3年生の頃、クラスメイトから生徒会長に推薦された時のことです。普通であればありがたく思うところですが、当時の私は「生徒会長になってしまったら勉強する時間が無くなる!」と思い、固辞していました。しかし、私の思いとは裏腹に周りは盛り上がるばかりで、弁論部の部長をしていたクラスメイトが、私の似顔絵を片手に代理で演説するものですから、校内の私の認知度は上がる一方。そこで私がとった行動は、投票日の早朝から校門に立ち「どうぞ私に投票しないでくだい!」と生徒の皆さんに頭を下げるという、前代未聞のものでした(笑)。
そんな私の様子が気がかりだったのでしょうね。卒業式の日、担任から言われた『犬竹よ、世の中に出ると机の上の勉強だけではダメだぞ!人間的に大きくなり、なんでもこなし、人脈を広げ、大きな人間にならないと人生つまらないぞ!』という言葉が、当時の私にとってそれはそれは衝撃的で、この先の人生を大きく変えるきっかけになります。
郵便局は継がないと決めていたため、高校卒業後は東京薬科大学に進学しました。というのも、自分は長男として将来家を守るのだと言われながら育ったため、家業に役立つ学問を考えてのことでした。実家では、近くに病院がない地域住民のために、東京から医師を定期的に呼び、タダで家を貸して眼科や薬局を開いていたので、それに関連する形で薬剤師免許の取得を目指したのです。
入学後は、高校の担任の言葉をもとに、勉強以外の経験もしようと一念発起し、4つのクラブを掛け持ちしていました。大学で一番大きなクラブである『製剤部』、当時薬学の世界で重要だったドイツ語を学ぶ『ドイツ語研究部』、エレキギター奏者として『軽音楽部』、小学校入学前から兄妹全員が習っていた『書道部』の4つです。これをきっかけに「あれもしたい、これもしたい」と興味を持ったものを究めていく人生になっていきました。
今でも、高校時代の同窓会に出席すると『この中で犬竹が一番変わった』とよく言われるほど、この先の人生が変わっていく基盤が、高校の担任の石川先生の言葉で作られたのです。
逆風の中でのマジックとの出会い
大学卒業後の就職先は、製薬会社の医薬品の営業職。家業を継ぐにあたって、優秀な医師を相手にすることが勉強になると考えたためです。入社したのは三共製薬(現・第一三共株式会社)でした。当時の大手製薬会社の中で唯一、本社を関西ではなく関東に構えていたことが理由で、それを面接時に伝えたら「よく来てくれた!」と言ってくれたのに、入社後配属されたのは大阪支店で、肩透かしを食らったことを今でも覚えています。すぐに「これも運命だ。一生懸命やれば道は開ける!」と切り替え、社会人生活を始めたのですが、今思えば、この配属が第二の人生の転換点だったと思います。
配属後は営業として病院を渡り歩く毎日でしたが、関西という地は、大手競合他社が本拠地としていることもあり、医師との関係の深さが営業成績に直結する医薬品業界において、三共の立場はすこぶる弱く、苦戦しました。しかし、そのような逆風の中で、私は2年目でトップ成績を収めることができました。これは、今も趣味としているマジックのおかげです。
きっかけは、大阪駅のデパートで偶然見かけたマジックショーでした。大勢の人が拍手をしたり歓声を上げたりしているのを見て、うずうずした私は「私にもやらせてくれ!」と名乗り出て、大勢の前で小学生の頃に友人に教わったコインとハンカチを使ったマジックを披露して大拍手をもらえました。そこでマジシャンの方から毎週末のマジック教室に誘われ、二つ返事で入会したのです。当時の月給2万4800円のうち5000円を月会費として支払っていたので懐は痛かったのですが、一生懸命練習しました。しかし、授業は生徒全員の習熟度に合わせて進行していくため、練習をしてこない人がいると進みが遅くなるのが悩みでした。ロープの手品の授業を終えるのに半年もかかったんですよ! 私はもっと上達したかったため、思い切って先生に個人指導を申し込みました。月謝はなんと1万5000円! 寮住まいで生活費を切り詰めることができたので、決意して3年間通い、色々なマジックをマスターしていきました。
プロ直伝の本格的なマジックを身につけた私は、この特技を仕事にも生かし始めました。医師の中で『三共のミスターマジシャン』と噂され、忘年会などに引っ張りだこになり、他の営業マンもやっていた麻雀やゴルフ以外の部分でも関係性を作れるようになったお陰で、成績もうなぎ上り。当時は営業数百人の中で1億円の売上があれば10本指に入れると言われていたところ、2億円もの成績を上げることができたのです。『芸は身を助ける』とは真実だな、と思いました。そして、もしも個人指導の月謝が高いからと、時間をかけて迷ったり、断ったりしていたらここまでは成し得なかったと思うと、人生において決断と実行がいかに大切か、、身をもって知った出来事でした。
大学の頃からその片鱗は見えていましたが、この成功が、より一層趣味を大切にすることに繋がっていきました。幼少期から続けている書道、社会人になってのめり込んだマジックのほかにも、絵を描くことや版画をつくること、俳句や川柳、読書、旅行、庭づくりなど、それぞれを本格的に楽しんできました。
趣味の多くは『他人の喜び、我が喜び』の精神で続けてきています。書道は、所属しているロータリークラブの賞状作成や、神社の寄付者の氏名書きなど、頼まれたら喜んで応じています。俳句は、手紙を書く時に前略で始めるよりも俳句を書き添えることが相手の心を温めることに繋がりますし、川柳はお笑いのネタ──例えば『温かく迎えてくれるは 便座だけ』なんて(笑)──として、明るく笑える雰囲気づくりに役立っています。また、趣味としてせっかくある土地を活かして、栗・原木椎茸・筍などを作ったり、カブトムシを大量に育てたりして、これを人に贈るのが好きなのです。趣味はそのものが心と人生を豊かにしてくれますが、趣味を通じて新たな出会いや人脈に繋がり、それがまた人生を豊かにしてくれます。これは、私が人生を通じて証明してきた真理だと思います。
第三の転機・ヤオコーへの入社
1973年、妹がヤオコー現会長の川野幸夫氏と結婚したことがご縁でヤオコーに入社しました。31歳の時でした。まだヤオコーが3店舗しかなかった時代です。当初は、実家に戻るまでの2、3年ほどの腰掛けのつもりでしたが、4店舗目の吹上店の開店準備をしていた頃に、その考えは覆されました。川野トモ名誉会長を乗せて車を運転していたとき、踏切で電車の通過待ちの列について停車すると、急にトモ名誉会長が車から降りて、前に止まっている3台の車をそれぞれノックして、なにやら話し始めたのです。聞けば「吹上に新しいヤオコーを開店します。よろしくお願いします」と、見ず知らずの、どこに住んでいるかも分からない人に挨拶をしているではありませんか! 私はその行動に驚いたと同時に「この人はすごい。この人についていきたい」と感じ「ヤオコーに骨を埋めよう」と決意したのです。
ヤオコーでは、経営の初期からご一緒させていただいたこともあり、様々な経験をさせていただきました。吹上店のオープン時には人手不足で、店内のレジ打ちから品出しまですべてを担当しましたし、バイヤーや財務部長、開発本部長、宅配事業の立ち上げなど、本当に会社の仕事の隅から隅までを経験したのです。その中で、特にトモ名誉会長からは多くのことを教わりました。その中でも、対外的な人間関係は特に鍛えられましたね。消防署や保健所など、お役所関係の中元・歳暮は私が必ず持参担当だったのですが、ある時、保健所の担当者の方が転勤になり「中元や歳暮はもう不要なのでは?」とトモ名誉会長に言ったことがあるんです。その時「ダメです‼ 必ず自宅を調べて持参しなさい。役所関係の方は同じ埼玉県内を廻っているのですから、必ず偉くなって戻ってくるはずです! 続けなさい!」と言われて、胸を打たれ、今でも実践しています。この心掛けが大きな人脈に繋がっていて、昨年末のヤオコーのクリスマスケーキやおせちは、私一人で2990もの注文をいただいたんですよ。本当にトモ名誉会長には人生を豊かにしていただいたと感謝しています。
そして、ヤオコーが40店舗まで広がった1995年、ヤオコーに行けば何でも揃う『ワンストップショッピング』を実現しようと、調剤薬局事業を立ち上げることになりました。その時に白羽の矢が立ったのが、薬剤師の免許と三共での経験を持つ私です。『株式会社日本アポック』の名で立ち上げ、昨年、合併により社名を『アポクリート株式会社』に変えましたが、店舗数は181店舗、売上高は350億とここまで大きくできたことも、すべてヤオコーでの仕事で得た知識や経験、人脈が基礎にあってこそのものです。
私が50年近く共に歩んできた中で感じたヤオコーの神髄──それは経営方針『豊かで楽しい食生活提案型スーパーマーケット』を貫いていることです。トップだけではなく、全従業員にその方針が浸透しているのです。同業他社によくある、本社が決めたことに従うトップダウン方式一本ではなく、2~3割は現場で働く地域の主婦のパートナーさんのアイデアで、地域の食生活に根差した提案ができていて、これがお客様の喜びに繋がっています。そしてなおかつ、このお客様の喜びが社員のモチベーションに繋がっているのです。お客様の喜びを自身の喜びと重ね合わせている社員のなんと多いことか……私も、アポクリートの経営でこれを意識して継承してきました。
仕事と人生において大事なこと
小さい頃から祖母によく言われていたことがあります。『この世に生まれた人間は、いつか必ずこの世を去る時が来る。三途の川を渡る前には閻魔様が検問をしていて、名誉、地位、財産はすべてこの世に置いていくことになる。その代わり、この世の楽しかった思い出だけは、持って行くことを許される。そして、三途の川を渡る時には、長さ100m、幅15㎝の細長い橋を歩いて渡ることになるが、この世で悪いことをした人たちは、橋から落ちて火の海地獄で恐ろしい鬼たちに食べられてしまう。だから、善行、すなわち他人のためになること、他人が喜ぶことをあえてやりなさい』と。
早いもので、今年の4月で私は80歳になります。私の人生は、様々な出会いや言葉によって形作られてきました。その中で、多くの趣味を持ち、多くの異業種の友人を得て学び、豊かな人生にしてきたつもりです。この人生を歩むうえで一番大切なことは、まず信用と信頼を持てる人間になることだったと思います。明るく元気に前向きに、自ら考え、行動し、約束を守り、人が嫌がることも進んでやって、様々な立場・文化の人と交流し、自分のありたい姿に向かって努力し学び続ける──一つ一つをとれば単純なことですが、継続は力なり!皆様も健康と時間を大切にし、真剣に生きていってほしいと思います。そして、あの世に思い出をたくさん持って行けるように、師、友人、家族たちと楽しい思い出を作ってください。
新日本ビルサービスの評価と期待すること
新日本ビルサービス様には、弊社アポクリート、ヤオコーの店舗、ヤオコーサポートセンターや大型店の運営管理を確実にこなしていただき、厚く御礼申し上げます。
関根社長のお父様がクリーニング店を立ち上げたときのお話を聴いた時には、感激してとめどなく涙があふれたことを覚えています。自転車で御用聞きをして周り、初めてYシャツ1枚のクリーニングを受注して地べたに土下座してお礼を申し上げたところから、その頑張りが繋いだ新幹線の客席カバーのクリーニング受注というサクセスストーリーは『感謝に勝る能力なし』をまさに体現したものです。そして、この精神を脈々と受け継いでおられる関根社長をはじめとする社員の方々のすばらしさには頭が下がる思いです。
また、さわやか社員の皆様におかれましては『生涯青春!』を合言葉に、世のため人のために頑張っていて素晴らしい! 年齢に関係なく『人間というものは、何歳になっても成長し続けられる』と努力する、その考え方や行動力は、日本の企業の鑑です。これからも全国に向けて『生涯青春』を発信していって欲しいと思います!
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