№99 「宇宙の真理が教える、仕事と人生の方程式」

生涯青春 インタビュー
人の何十倍も凝縮された人でのご経験のエッセンスを伺いました。生を歩まれている佐治先生に、これま

令和5年3月29日(木)

理学博士(理論物理学) 佐治 晴夫  様

  音楽、物理、宇宙科学……と幅広い分野に精通し、様々な学校・大学などで教鞭をとられたのち、現在は鈴鹿短期大学の名誉学長に就任していらっしゃる佐治先生。ここまで読むと教育者一筋に見える経歴ですが、なんとトップメーカー研究所で、家庭用ビデオ規格VHSの3倍モードの開発や、1/f ゆらぎ理論の家電製品への応用、そしてNASAの客員研究員として、ボイジャー計画に携わるなど、研究者・発明家としての実績も数多く残されています。
 そんな、人の何十倍も凝縮された人生を歩まれている佐治先生に、これまでのご経験のエッセンスを伺いました。

14歳までに決定づけられた運命

 僕の経歴を見ると、なんだか幅広くて、お互いに関連がないように見えるかもしれません。しかし、僕の人生は、振り返れば14歳までの出会いですべてが運命づけられていたように思います。

戦火の中でクラシック音楽と出会う

 1つ目の出会いは、昭和11年の二・二六事件がきっかけです。当時乳児だった僕の子守りをしてくれていた娘さんが、表通りの銃声に驚いて僕を抱いて押し入れの中に隠れたそうです。
 その娘さんがよく歌っていたのが〈シューベルトの子守唄〉だったそうです。乳児ですから当時の記憶は当然なく、この話も母から聞いたものです。今でも『シューベルトの子守唄』を聴くと、なんだか不思議な気持ちになるのは、もしかして潜在意識として擦り込まれていたのかもしれません。クラシック音楽の洗礼を受けたということなのでしょうね。
 次の出会いは、太平洋戦争中東京初空襲となるドーリットル空襲で、当時は日本中が真珠湾攻撃で勝ったとばかりの戦勝ムードの中でしたから、日本本土が空襲を受けたことで、世は騒然となりました。「やがて日本全体は火の海になる」と、人々が考え始めたのです。そんな中、僕の父は『日本橋の三越に、日本に数台しかないパイプオルガンがある。戦争で失われるかもしれない音色だから、聴きに行きなさい』と言ったのです。兄に手を引かれて訪れた当時の三越は、1階が礼拝堂のようになっていて、中2階のパイプオルガンの音色が売り場全体に響き渡る構造になっていました。その荘厳な音色に衝撃を受けましたね。あんな楽器がこの世にあったのかと。目に焼き付いたのは、戦闘服姿──鉄兜を背負い、弾倉ベルトを体にまいて、腰から銃剣を下げたオルガニストでした。当時は軍国主義の時代ですから、演奏されるのは〈軍艦マーチ〉〈海ゆかば〉〈空の神兵〉といった、軍隊をたたえるような楽曲ばかり。そんな中で、ふと差し込まれたのがバッハの曲でした。当時日本は、ドイツが同盟国だったからこそ弾けたのでしょう。
 オルガニストは、東京音楽学校(現、東京芸術大学)出身者だったようなので、どうしてもバッハを弾きたかったのだと思います。
 今思えば、これがバッハとの出会いでした。あの衝撃がずっとずっと心の中に残っていて、奇しくもその35年後、ボイジャーに搭載されたゴールデンレコードにバッハの曲を載せようと提案することにまで発展したのです。さらにそれから42年後に、僕のライフストーリーがプラネタリウムの番組になる際、僕はその曲の収録を、夜中の三越で弾くことになりました。ドラマですよね。なにか運命づけられていたように感じます。

●恩師たちと天文学との出会い

 ドーリットル空襲は、もう一つの出会いを生みました。空襲を受けて、担任の先生が「次の土曜、授業はしません。代わりに、君たちを連れていきたいところがあります」と言って、有楽町の東日天文館に連れて行ってくれたのです。そこには、当時日本に2台しかないプラネタリウムの1台がありました。
 なぜあの時、子どもたちをプラネタリウムに連れて行ったのか?聞きそびれたまま先生は亡くなってしまいましたが、推測はできます。その先生は、のちに作家として賞をもらうほどの文学者でした。先生は毎朝、授業が始まる前に宮沢賢治の本の読み聞かせをしていました。宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』に「正しく強く生きるとは銀河系を心に意識して、それに応じていくことである」という一文があります。他にも銀河鉄道の夜に代表されるように、宮沢賢治と星は切り離せない関係にあります。おそらく先生は「われわれの人生の目印は空にあるはずだ」という確信めいたものを持っていらっしゃったのではないかと思うのです。自国が戦争で火の海になることが現実になろうとしている世界で、それを子どもたちに伝えたかったのだと思います。
 さて、戦争が終わって二年、僕は中学生になりました。当時は戦地から戻ってきても、もとの勤め先がなくなっていたことから、戦後発足したばかりの新制中学には、もともと教員志望ではなかった先生方がたくさんおりました。その中に、国から助成金をもらって望遠鏡を買ってくださった先生がいました。夜、僕たちを校庭に連れ出して、大変高価な望遠鏡なのに「自由に見ていいからね」と信頼してくださいました。敗戦国で、財政難で、闇市が横行していた当時の日本で、よく思い切ったことをなさったと思います。僕は初めて望遠鏡で見た月に心を打ちぬかれました。大理石の彫刻にように神秘に満ちた月。にわかに信じがたい土星の景観、木星の縞模様や四つの衛星など。戦争と復興の時代に、良識ある大人たちの導きで全てを包み込むようなスケールの大きい宇宙に触れて、今の僕があると思うのです。

●シューベルトが教育の道を照らした

 乳児の頃にできたシューベルトとの縁は、ウィーン大学で研究をしていた時にも、思わぬ形で僕に新たな出会いをくれました。当時はドイツ語の会話を手軽に学べる環境が今ほどなかった時代だったこともあり、当初は日常会話にも苦労しました。周りを見れば天才ばかりに見えて、あせりがでてきたころ、近くに、シューベルトが最初に埋葬された墓地があることを知って、訪ねたことがありました。
 その墓碑に刻まれたグリルパルツァーによる追悼の言葉に、僕の目は釘付けになりました。「ここにひとつの豊かな宝物を埋葬した。しかし、それだけではない。たくさんの美しい希望をも埋葬した」。つまり「もしシューベルトが生きていたら、私たち人類に与えてくれていたであろう、たくさんの美しい希望」を惜しむ讃歌だったのです。
 僕はこの言葉から、人の生きる意味とは、希望を語り、人に希望を与えることなのだと気づきました。言葉が通じる、通じない、天才、凡才ではなく、いかに希望を語り、人に希望を与えられるかによって、人生の価値が決まる ということですね。この気づきは、ずっと僕の頭の中に沈潜していて、この後しばらく研究一筋の生活が続きましたが、最終的には “教えるとは希望を語ること” という考えのもと、多くの大学で教鞭をとることになりました。

奥様・順子様とは、教鞭をとる中で生徒からの音楽に関する質問に何とか答え ようと、答えを探している中で出会ったとのこと。

人生を豊かにするには、出会いを大切にすること

 こうして振り返ると、14歳までの様々な出会いが、今の僕を形作っているのがお分かりいただけたかと思います。しかし、ただ出会っただけで人生が豊かになるのではなく、その出会いをどれだけ大切にしてきたのかが重要だと思います。

●同期が結んだ松下電器東京研究所との出会い

 大学卒業後、東京大学物性研究所で研究していた僕は、財力でアメリカに敵わないのが悩みでした。というのも、アメリカでは実験装置をメーカーがつくっているのに対して、僕たちは手作りの装置で研究していたからです。なにか新しい成果を出せても、アメリカがいち早く規模の大きな装置をつくって追い抜かされてしまう。それを避けるためにアメリカのメーカーに装置の一部を外注しようとすると、決裁が下りるまでにハンコが10個以上必要で、結局時間がかかってしまうのです。
 その頃、たまたま出席した大学数学科のクラス会で、そんな近況を話したところ、「松下幸之助さんからの資金援助で日本初のシンクタンクをつくるから、来ないか」と、松下電器東京研究所に誘われました。これも、ものすごいご縁ですよね。
 当時の国立大学の助教授クラスを全国から集めた松下電器東京研究所は、今思えば、夢のような研究所でした。これまでの大学ではできないような研究ができ、ゼミは通常の大学院を超えるほど充実していました。外国との交流も盛んで、最先端のことができたのです。考えられないほど贅沢な時間で、活気のある研究集団でした。

VHS開発がつないだ2人との出会い

 更に幸いしたのは、その研究の中で、松下電器の社命を決する、ソニーとのビデオの最先端技術の開発競争を、どういうわけか僕が担当するようになったことです。ここで学んだことは数知れません。特に松下幸之助翁と会長室で一言二言交わした短い会話の中に、ものすごい学びがありました。翁は、普通は「なぜだ」と聞きそうなところを、「それで?」と促す魔法のような引き出す力のある人、という印象をもっています。また「できるかできないか、分からないと君が思うんだったらできるはずがない。やるんだったら、できると思ってやれ」「やってみなきゃ分からないと思ったら、やってみなさい」という言葉も、長く僕の指針となりました。
 また、もう一人、幸之助翁とともに松下電器を立ち上げた当時、技術最高顧問だった方も、ものすごい人でした。僕が担当したのは、VHSの時代を築くのに最も重要な磁気ヘッドの開発でした。その素材になる単結晶づくりに苦労しました。東京研究所で単結晶のインゴットをつくり、出来上がり次第すぐに大阪に運び、その最高顧問にお見せする日々。最高顧問は職人肌で、インゴットを手渡すとコツコツと表面を叩いていきます。音が違うのでしょうね。「うん?どっかにヒビが入っとるな」と、加工工場の工場長を呼んでインゴットを切断すると、実際にクラックが入っていたのです。
 社運を賭けた、一分一秒を争う開発です。普通だったらその失敗に立腹するところを、「クラックが入った原因は何だと思いますか?」と必ず敬語で質問するのです。材料を1200℃で溶かしたものを徐々に冷やして結晶化させる過程で、その時の温度分布の変化についていけなかったのではないかと答えると、「ならば、その温度分布を測りましたか?」と。
「いえ、1200℃で溶けた状態での温度分布は測定器が溶けるので測れないのです」と答えたら、「私は大学も出とらん。だけど、勘というものがあるんや」と言って、すぐに工場長を呼び、ダイヤモンドと同じくらいに硬いインゴットに強引に穴を穿ち、そこに測定針をいれて、計測可能な温度まで下げて温度分布を測り、そのデータから1200℃での推測値を計算するというアイデアを出してくださったのです。まさか、僕はそこまでは考えていなかったので、目から鱗でした。「いや、そこまでは気づかず…」という私を叱責するどころか、えへへと笑っておしまいでした。そうして、とうとうVHSの磁気ヘッドは完成しました。

VHSの功績が、自由な研究開発につながった

 この功績により、僕のいた『基礎第3研究室』は『佐治研究室』という、当時の松下電器の中で唯一、固有名詞のついた研究室として独立しました。これは望外の喜びでした。そして、当時、開発されたばかりで、今の牛乳パックくらいの大きさの携帯電話を僕に支給していただき、「あなたは今後、居場所さえ教えてくれれば自由にしてよろしい」とまで言っていただけました。研究室の人事も含め自由にさせてもらえたのはありがたいことでした。
 その後、社長が交代された際に、松下電器のテーマが『ヒューマン・エレクトロニクス』になりました。人の役に立つエレクトロニクスという意味のテーマに基づいて「一つ、何か開発してほしい」と依頼がありました。そこで選んだのは扇風機。その発想は、満員電車に乗る女性でした。車内では扇風機から周期的に風が吹いてきますが、髪が乱れるからでしょうか、若い女性が恨めしそうに扇風機を見上げる様子を見て「こういうお嬢さんでも、美しい野山のそよ風のような扇風機だったら、心地よく思えるのではないか」と思ったのがきっかけでした。
 そこで、1/f ゆらぎの扇風機をつくることにしました。松下電器での研究の傍ら、継続していた、東大物性研での研究テーマである非線形統計力学──全て一定ではなく ゆらぎがないと世の中は成り立たない という理論──の中で、実際に自然の風の変化を計測してみると、確かに1/f ゆらぎになっていたので、これはいけると確信があったのです。実際、400億の大ヒット商品になりました。

「これから」が「これまで」を決める

 この言葉を読んで、「逆じゃないか、 “これまでがこれからを決める” のではないか」と思った方も多いのではないでしょうか。ましてや、今日の話は「僕の人生は14歳までに運命づけられていた」というところから始まっていますから。……しかし、これでいいのです。
 当然のことながら、過去は変えられません。例えば、どこかの大学を受験して落ちた、という過去はどうあがいても変えられませんよね。ですが、その過去の『価値』は、「これから」の自分が変えていくことができます。「あの時にあの大学に落ちたから、今の私がある」と思えるような「これから」の時間を、過ごすことができるかどうかにかかっているのです。
 今ある自分、というものは、昨日の自分、一昨日の自分……と、過去が集まり積み重なった結果として今、ここにあるのです。これからどのように生きていくかによって、その未来の結果は、良くも悪くも変わっていくでしょう。そこで、いい結果が出せたならば、どんな過去であれ、「この過去があったから今の自分がある」と言える。つまり、過去の価値は、これからの自分の行いで変えていくことができるのです。
 「僕の人生は14歳までに運命づけられていた」というところから話し始めましたが、結局は、出会いを大切にしてきた結果、これまでお伝えしてきた過去の価値を、どんどん高めることができた──その時々の僕が「これまで」を決めてきたのが僕の人生なのです。
 では、これから「これまで」を変えたいと思ったらどうしていけばいいのか。僕は「思うこと」をお勧めしたいです。『思えば叶う』とは、昔から精神論として語り継がれてきたことですが、近年どうやら科学的にも確からしいことがわかってきています。こうありたい姿や興味のある物事について日ごろから考えていると、別のことを考えている時でも、無意識のうちにそれらに関する情報が周囲にないか、脳が自動で検索するらしいのです。ふっと何かを見たときに「これ、使える」となって、それが積み重なって思いが叶うのです。
 僕はいつだって「今さら」ではなく「今から」です。出会いを大切にしておくことで、出会ったときには思いもよらなかった道が開けてきました。人生って妙なものですね。大変なことはあるけれど、定年過ぎてからが一番面白いですよ!

「これから」が「これまで」を決める、という考え方は、まさに生涯青春の人生を送る秘訣だと 思いました。ありがとうございました! !

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