№97 「足利流5Sの同志 「発展」と「調和」の軌跡」

生涯青春 インタビュー
足利流5Sの同志 「発展」と「調和」の軌跡

令和4年10月18日㈫

菊地歯車株式会社 代表取締役社長 菊地義典 様

菊地歯車の黎明期、創業期について

 私の曾祖父(菊地寶作)は当時銀行に勤めていたのですが、学歴がそんなになかったので、これ以上出世できないのではないかと、足利は機織りが盛んだったものですから、一念発起して機織りの会社の創業したのが始まりです。
 私の祖父(菊地元治)も、すごく開拓者精神が旺盛だったらしく、若い時はフィリピンに行って開墾とかをして、それで一旗揚げよう みたいな… 残念ながら一緒に立ち上げた友人が病気になってしまい地元に帰ってきて、それで私の祖母(菊地喜美)と、お婿さんをとる形で結婚したのが次の代です。
 祖父も織物の工場を経営していたそうなのですが、曾祖父の会社と統合し商売をするということになり、一緒に機織りをやっていたと聞いています。祖父が出征するちょっと前に、どこかで「歯車がこれからは良いのではないか」と聞きつけたらしく、歯車の製造を行う機械を4台ぐらい機織り工場の片隅に入れて、歯車の生産を細々と始めた時期に出征し、昭和18年にニューギニアで戦死をしてしまいました。
 機織り工場は曾祖父と祖母がやっていたのですが、段々戦争で負けが込んできて、国に鉄を納めなければいけないことになり、2人で話し合い、残っていた機織りの機械を供出し、歯車の加工機は残そうという判断をされたみたいです。機織りの機械を供出した状況の時に戦争が終わり、戦後残っている生産手段が、歯車の機械だけだったという形になりまして、そこからが菊地歯車の歯車専業としてのスタートだと聞いています。

菊地義典社長様から、菊地歯車 80年の軌跡と100周年向けて の熱い思いをお聴きしました。

戦後混乱期を生き抜き、三代目義治社長(現会長)へ

 戦後、機織りの会社は大活況で儲かったと聞いているのですが、うちに残っていたのは歯車の機械だったので、機織りの活況に乗れず、細々と食い繋いできたのだと思います。子供は私の父を含めて3人、その3人をどうにか曾祖父と祖母が工場をやりながら育てる…  曾祖父はまもなく亡くなってしまい、祖母が歯車の製造を行いながら、父が大学を卒業して会社を継ぐまで、ずっと女手一つで育てたと聞いています。それは相当な苦労だったのではないかと、改めて思います。
 祖父が、戦地から家族に宛てた手紙が、父にとっては大きなインパクトになったと聞いています。「俺はお前を信ず何等後顧の憂いもなし。元気極めて旺盛なり。米豪軍壊滅の気概に燃えており、更に前線に出動せんとす。お前達が益々壮健で幸福に暮らせる様祈念しつつペンを置く」
 残された妻や息子に家業を守れとは一言も書いていません。志し半ばで悔しいといった泣き言もありません。家族を誰も縛っていません。そうした父親の一言一言が胸に響き、「考古学などやっている場合ではない。自分の好きなことをやるよりも早く独立して、母を楽にする。誰にも恥じずに生きる」この手紙を皮切りに、歯車屋を継ごうと父が決意してくれたので、良かったなぁと思います。
 父が会社を継いだ時、従業員2人の工場だったそうです。国立大学卒で町工場を継ぐ人がいなかった時代に、逆に町工場としはアドバンテージになったのではないかと… あとは、日本も経済的に伸びる時代だったのだと思います。昭和44~45年にかけて、ここの場所(足利鉄工団地)を足利市が造成し、地元の町工場18社ぐらいがこの団地に出てきたというのも、大きな転機でした。
 最初は、機織り機の修理の歯車から始まったと聞いています。次は、オートバイの仕事を沢山やったそうで、その時代時代で伸びる仕事を受注するという流れができてきたことは、確かだと思います。
 1966(昭和41)年には従業員が16名と増え、売上も順調に伸びていましたが、この年、売上の7割を占めていた会社からの依頼が止まります。1社集中は色々な意味で経営が楽ですが、そこからの仕事が止まると、会社は傾きます。そこから、「歯車を使うあらゆる企業と取引する」という考えが生まれました。また、お客様にとって1ヵ所で何でも揃う、ワンストップ・ショッピングは便利です。そこで、「できない歯車はない、どんな歯車でも作ること」をモットーとし、関連性があれば、歯車に限らずに対応するようにしました。つまり、ワンストップソリューションです。この方向転換はニーズがあり、建設機械関連、そして自動車関連で新規の得意先が生まれ、特にこの二つの業種は得意分野となり、順調に顧客を増やせました。
 今も、この考え方を引き継いでいますが、仕事を伸ばすためには、少し余裕がなければダメだ 工場も空きスペースを必ず持っておけ そうしなければ、次のチャンスがきた時に投資ができない そんな考えでやってきています。増えた売上をすべて機械の購入につぎ込みました。しまいに、機械を売りにくる商社の担当者から、機械の購入費は売上の半分に抑えた方がいいとアドバイスされたほどです。製造機器だけでなく、歯車の精度管理が重要だと認識し、いち早く試験機も導入しました。

 当時、特に中小零細企業の場合、技能を教えて自信がつくと辞められてしまうのが常で、そのために肝となることはあまり教えないという風潮がありました。しかし、当時から従業員に対しては、菊地歯車で働いて良かったと思ってもらいたいという点を踏まえ、社員教育としての技術習得に力を入れて、独立できるまでの技能を習得することを目標にサポートしてきました。
 こうすることが従業員の幸せに通じ、ひいては会社の幸せに通じると思ったのです。同じ目的を持った集団は強いです。協力し合って目的を達成するための集団が会社だと思っています。これが菊地歯車の「発展調和」の原点です。歯切盤一級技能士の人数は、日本でトップだと自負をしています。いろいろなお客様からの注文をこなし造っていくためには、現場の技能が高くないと対応できないのです。
 また、会社の中の事業ユニットを小さく見る管理、『小集団管理』と会長は言っていますが、班長が社長みたいなイメージで、班(おおむね10人以下)ごとに収益をみて、採算意識を高めるような管理手法は、随分早い段階から入れていました。業績の財務書を作り、貸借対照表・損益計算書を理解できる班長(=経営者)を育てる、それが大きな目指していた方向です。今でいうアメーバ経営的な考えだと思うのですが、真似したわけではなく、父が自分で考え、パソコンとかがなかった時代に全部手書きでやっていたというのは、今振り返ってみても凄いと思います。

菊地義典4代目社長へ

 私は1969年生まれで今年53歳になりますが、今でも覚えているのですが、幼稚園の頃には「菊地歯車に入って働く」というふうに書いていて、それが一切ぶれずにずっときました(笑)。子どもの時には、会社に来るのが好きで、自宅のほうに工場の跡地が残っていて古い機械が置いてあり、それをグルグル回して… そんなようなことをして、遊んでいました。
 学生時代は、当然、歯車屋を継ぐので理系の勉強をして、機械工学科をいろいろ受験し、早稲田大学の機械科に1浪をして入りました。学生時代のエピソードの一つとしては、卒業研究で『作業者の満足度測定』という研究をしたのですが、その時に入っていた研究室の先生の考え方で「人間がある程度中心になって物を造るべきだ」という、人間中心の生産システムを研究されていました。『human oriented manufacturing system』と先生が名付けて、作業者の満足度をどうやって測るかという研究で、作業者の表情の画像解析や脳波計測定を手探りでおこなったりしました。ある鋳物会社に行って、実際の作業者にアンケートを取ってみたら、作業が過酷とか、過酷じゃないとか、作業自体の満足感ってあまり関係なくて、職場の満足感っていうのは、全て人間関係だということが分かったのです。
 それが役立ち、良好な人間関係が早く構築できるように、会社としてしっかりやっていかなきゃいけないと思い、人事の専門部門をきちんとつくって、そちらからアプローチしています。いかに人間関係をよくするかに、すごく気を使います。いろんな職場で、結局、新入社員が早く辞めたりするのも、人間関係が構築できていない社員がやめるし、なかなか、今の若い子は難しくなってきて、私も日々悩んでいます。例えば、同期で集まる機会をなるべく増やすとか。昔なら、同期入社が勝手に集まって、自分達で食事会とかやっていたんですが、コロナ禍があったりしたせいか、なかなか自分たちで関係性をつくるっていうのが苦手な人が多いような気がします。
 あとは年1回、幸福度測定というのをやっていて、ポイントが上がるような取り組みをやっていますが、まだまだチャレンジの途中です。最近、幸福学というのがだいぶ確立されてきて、どういう状態が幸福感が強いかという研究が心理学の分野で進んできています。うちのメインバンクの商工中金さんが、幸せデザインサーベイという新しいサービスを始めたので、そのサーベイを行って、どういうところが足りないとか、どういう要望があるのか、年1回定期的に聴く機会を設けて活用しています。

 社長に就任したのは、35歳の時なので、18年前です。大学を卒業してすぐに菊地歯車に入って、最初に経理部門に入れられ、伝票付けを1年間ずっとやったのですが、全部勘定科目でものがみられるようになったのが非常に良かったです。次に品質保証部の出荷検査をしたのですが、全部の品物が最終的にそこを通るので、お客様と品物とかも全部わかるようになりました。その後、うちは生産管理が弱かったので、市販の生産管理システムを買って立ち上げようとしたんですが、うまくいかなったので、時間がかかりましたが、自分でシステムを作り、全部の品物のトレーサビリティーが取れるようになりました。今は、ベンダーさんにそのシステムを基にお願いしていますが、大本は自分が作ったシステムの考え方で動いているので、非常に分かり易くなっています。
 30歳ぐらいの時に、35歳でバトンタッチをするからというふうに言われたので、会社の年度方針とかをゴーストライター的に書いていました。それを基に会長が多少手直しをして年度方針を発表していたので、そういう助走できる準備期間があったので、すごく計算できて良かったです。

足利流5Sの同志として

 指導者の木村温彦先生の教えは、常に実践することを重んじているのと、ルールが簡単というか、難しいことを求めていらっしゃらないので、誰もが気楽に始められる、そういう取り組みやすさというのがあります。しかも、考え方のベースは凄くしっかりしているので、座学と現場実践、これを繰り返してやり、若い社員を中心に受講するメンバーを変えながらやっていく中で非常に現場が良くなってきました。
 一番大きかったのは、パイプツール台車の導入で、5Sのレベルが一段上がったと感じています。自分の手で実践できるというのは、非常に大事です。パイプツール台車は間違っていればバラせばいいし、自分でできるので、まずはやってみるわけです。自分たちで作って、使って、悪ければまた改善するみたいな…  改善魂が付いちゃうドンドン改善が進んでくると、仕事も忙しいから、休みの土曜日とか日曜日に出社してやろう、そういう気持ちが出てきて、勝手に作っている姿を何回も見ました。そういう形で良くなる職場を皆が見ていますから、自分たちで取組もうとういう形で一気に進みました。ただ、最初はパイプツール台車の作り方をきちんとレクチャーしていただいたので、拡がっていったんだと思います。

ショールーム化された工場内見学は、受注率100%!
 5S継続でちょっと停滞感があった時に、VM(visual management)活動を取り入れました。VM活動は、次までにこのレベルまでやりましょうみたいな、そういうステップが明確になっています。5Sをやってきたからこそ、逆にVMの教えが入りやすかったと思います。いろいろなことを見えるようにしようということで、カンバンの工程管理表示をドンドンしたというのは、見える化のVM活動の一環です。
 5Sをやめないでやり続けるために、会社の組織とは別に、5S・VM委員会というのがあり、5Sパトロールを十数年間、毎月ずっと続けています。パトロールは簡単ですから、気づいたところは、翌月までには改善するみたいな… それをやり続けないと、多分、下がっていっちゃうのかなという気はします。
 昔は新聞紙で油を吸っているような工場だったのですが…(苦笑)。新規の引き合いがきて、見積もりを出して、興味をもってもらい、工場に実際に来てもらうと、ほぼ100%受注が決まります。一つのコンセプトとして「工場をショールーム化しよう」をイメージしてずっと進めてきましたので、「工場に来てもらえれば、仕事は取れる」という成果は、非常に大きいです。
 新日本さんも武蔵屋さんも、すごく熱心に5Sに取り組んで、着実に成果を出しておられる会社だなっていう印象が強くあります。そして、業務が違うにも関わらず、こうして何度もご来社いただくことが非常に嬉しいです。ですから、井の中の蛙じゃうちも駄目だと思ってますので、そういうネットワークで色々な会社を見せてもらっているのは非常に役立っています。
 例えば、足利世界5Sサミットの講師でお越しになった味の素の藤江常務から、フィリピンとブラジル味の素の社長時代に、木村先生の教えを受けて5S実践で大きな成果を上げられた実例をご紹介いただきました。その足利とも交流のある方が、味の素本体の社長に就任されたことは、我々も非常に嬉しいですし、励みになっています。
 新日本さんにアドバイスというほどでないですが、私たちも苦労しているのが、新しい社員が入ってきたときに5Sのベースが出来ていることが当たり前になっていて、改善してきて今の職場を作ってきたという感覚がなかなか理解できない人が増えていることです。ただ、5S自体はすっと続けていかなければならない。継続の一番のポイントとしては、課題を実際に解決することです。本当に5S実践で職場を変える経験を、次の世代にどうやって5Sを含めてしっかり教育していくかだと思います。

100周年・日本一の歯車会社を目指して

 お客様から、常に最新の、そして高いレベルを要求されるので、できる限り迅速に対応するため、都度それぞれの現場で最善を検討しなくてはなりません。こうして経験を積むことが個々のスキルアップにつながるため、従業員はお客様に育てて頂いてます。ベテランがバックアップしつつ、若手には早くからお客様との交渉ごとの最前線を任せています。技術力があっても、お客様にその技術がどれだけ優れているかを伝えられなければ採用されません。ですので、折衝力を鍛えることも必要です。そして、ベテランには技術の承継だけでなく、常に半歩先を見据えた教育をするよう指示しています。
 会長も私も必死です。我々だけではなにも出来ません。現状レベルに満足していては個人も会社も成長しません。ですので、技術力、営業力、企画力のすべてにおいて我々よりも優れた人材を育てようと取り組んでいます。そういう人材が育てば、我々は安心して経営に専念できます。そして人を、チームをマネジメントできます。そのためにも現場は従業員たちに任せるべきなのです。それが菊地歯車流です。
 世の中も産業構造も激変していますが、歯車自体がなくなることはないと思います。ですら、難しい歯車も造れるようになって、どんどん究めていきたい。トヨタ自動車の最高級車や航空宇宙、ロボットなど最先端分野にも採用され、2500種類を超える歯車製造をできるようになりました。
 今は日本のお客様がメインですが、客観的に見て日本の歯車の技術は世界レベルと比較すると遅れています。ヨーロッパ、なかでもドイツがナンバーワンです。業界の一員として非常に大きな危機感を抱いています。だいぶ円安にもなってきて、同業他社でも海外へ売る比率が高まってきており、菊地歯車も海外に力を入れなければと思います。「思っていれば、それを実現できるチャンスが必ずやってくる。強烈に望めば、その夢は叶えられる」感謝の気持ちと、発展調和の理念で挑戦していきます。

足利流5Sの同志の菊地義典社長を囲んで「これ、一度やってみたかったんですよ!(笑)」と 言われた力強い生涯青春! !

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