№100 「大 和 ハ ウ ス の DNA [ 熱湯経営・凡事徹底 ] を貫く」

さわやかインタビュー
大和ハウスのDNA「熱湯経営・凡事徹底」を貫く山野井社長と佐藤取締役と共に生涯青春! !  熱い想いを共有し大きな夢とビジョンに挑戦してまいります! !

令和5年7月10日㈪

大和ハウスプロパティマネジメント株式会社
代表取締役社長 山野井 修 様
取締役 佐藤 慎一 様

山野井社長と佐藤取締役の生い立ち、プロフィール

山野井社長 生まれたのは東京の新宿区です。今は都会ですけど、その頃は本当に田舎みたいでのどかでした。昭和32年ですからまだ副都心もなく、それこそ淀橋の浄水場が見えて、淀橋警察が野原の中にあるような時代でした。当時は柏木(現在北新宿)という地名ですけど、そこで小学校まで過ごし、その後埼玉に引っ越したんです。何でも興味を持つようないい子でしたよ。
 小学校時代から俳優になりたくて、子役をしばらくやっていました。昔『いじわるばあさん』というテレビドラマがあり、ちょい役で出させてもらったり、劇団四季の『青い鳥』っていう劇場ミュージカルに子役で出させてもらいました。いくつかの劇団から子役が来て、昔の日生劇場で1カ月ちょっと公演しました。そのときの主人公のチルチル役が荻島真一さんで、他に浜畑賢吉さんなどもいらっしゃいましたね。その時の気持ちはずっと持ち続けて、俳優になりたいと思ってたんです。

 埼玉に移ったのは、家がアパート住まいだったので狭くて、親が地方へ行ったら安く手に入るっていうんで、新座市に引っ越しました。本当に安かったんでしょうね。当時は、夜空を見上げたら、本当に星がきれいで。新宿とは違うという思い出があります。
 中学はそのまま地元の中学校へ、高校はとにかく、人と変わった所に行きたいなと思って東京工業大学工学部付属工業高等学校に行きました。すごく自由な雰囲気があって面白かったです。
関根 子役から工業高校に行くわけですね。
山野井社長 それでもずっと俳優の夢は捨て切れず、大学も俳優を目指そうと思っていました。高校に日大芸術学部に誘ってくれる先生がいたんですけど、そこよりも劇団に入ろうと思って、そんなことをもくろみながらずっと工業化学の勉強をしましたね。国立だったので、予算が潤沢にあり色々な実験をさせてもらい、良い経験をさせていただきました
 結局、大学は工業高校から理工系に行けなくて、一浪して法政大学に入ったんですけど、その時に俳優の夢はもう断念しました。というのも、「有名になりたい」というだけで、俳優になるという明確な意思は何もなかったんです。それでサラリーマンをやろうということで、大学で法学部の政治学科で勉強しました。
 と言っても、大学時代は遊んでばかりいました。大学時代の一番の思い出は、自転車が好きでサイクリング同好会に入って、4年の間に各地をいろいろ回りましたね。春、夏は合宿があったんで北海道から九州まで行きましたよ。一番それが面白かったですね。
関根 大学を満喫されて、大和ハウス工業さんに入る経緯は?
山野井社長 サイクリングが好きなので、旅行業界に就職したいと思ったんですけど。当時旅行業界大手4社、全部落ちました。これは駄目だなと思い、大学の就職課に行って、上場会社でいい所ないかなと思ったら、たまたま「大和ハウス」という会社を見つけたんです。就職課の職員に、「実はここに上場会社で、大和ハウスっていう会社があるんすが、受けようと思うんです」って相談したら、「君、そこはやばいよ」と。本当にブラックみたいな、当時はブラックとは言わなかったですけど、「もう大変だぞ」と、「止めたほうがいいぞ」って言われたんです。それで、また燃えてきて、関根社長じゃないけど、燃えてきて、大和ハウス工業に入ったんです。それで今があるのが実感です。とにかく、営業をしたかったんです。営業しないと人間は成長できないなと思ってましたから。大和ハウスに入って、われわれの出身の部署である特建事業部に配属されて、頑張っていきました。

笑顔の中に熱い情熱を秘めた  代表取締役社長 山野井修様

佐藤取締役 平凡な子でした。昭和36年に宮城県の仙台で生まれて。ずっと大学まで地元。中学校のときにソフトテニスを部活でやりましました。高校、大学と硬式のテニスをやって、一応、インカレ(全日本大学テニス選手権大会)の選手までにはなりました。
 当時はプロも目指そうかと思ったんですけど、スポンサーが付いて初めて1000万とか、2000万いくような時代だったんです。これじゃ、面白くないって思って、サラリーマンをやろうと。あの頃って売り手市場だったので募集が多かったんですよね。
 全然、勉強してないですけど、とにかく「東京に出たい」っていう思いがあったので、商品先物取引会社の面接を受けたんです。親父は地元に置きたかったので、親父のコネで地元の会社の内定はいただいてたんです。大学で建築学科も選考してないんですけど、スーツ着て、ヘルメットをかぶって図面持っている姿にすごい憧れたんです。就職課にも聞いて、「商品先物取引はやめろ」と、「絶対駄目だ」と言われて。絶対駄目だという話になって、地元か、大和ハウスということで、地元を出たかったので大和ハウスに入ったということです。
関根 同期入社は多かったですか。
佐藤取締役 グループで600人ぐらいです、売り手市場だったので。私はもともと、特建ではなくて、大和ハウス内の流通店舗事業部に配属されました。商業施設をやるということで一番最初に配属されたのが青森で、縁もゆかりもなにもない所。あの頃って、Uターンじゃなかったんです。Iターンだったんです。要するに地元で配属しちゃうと、縁故営業するっていう。それだと全然、実力が付かないっていうんで、全く違う所に配属された時代だった。私は東京に来たかったので、あの頃、エリアを三つ選択するんですが東京、神奈川、宮城にしたんです。そうしたら全く関係ない青森に配属されて、青森に丸々24年間勤務しました。代わりが来ないんです。転勤希望出しても、青森に入れ替えしてくれと指名した人間、3人ぐらい辞めました。「青森だったら行きません」って言って(笑)。

24年間の青森支店の経験が今の全ての 仕事に役立っています。 取締役 佐藤慎一様

創業者・石橋信夫氏と後継者・樋口武男氏の生き方と経営について

山野井社長 石橋信夫さんはよく分かりませんが、樋口さんは私たちの親分でした。私は最初、配属先が大阪本社で、特建営業部という部署の営業でおりました。そのときに樋口さんは、当時東京支社で事業部長か取締役でおられました。
 私は大阪に4年間いましたが、樋口さんが常務になられて、大阪在職中の4年間のうちの最後のほうに大阪にお見えになって、会議等で薫陶を受けたことがありました。直接、怒られることはなかったんですが、怒ると怖い人でした。だけど親分っていうか、おやじみたいな存在でした。
 私は大阪で成績が振るわなくて、当時は会議で事業部長から怒られまくりました。それで山陰支店に飛ばされました。当時、山陰地方は陸の孤島みたいだと揶揄されていた所だったんですが、そこで一所懸命頑張って、実績を上げました。私が山陰にいるとき、樋口さんが一度見えたことがあって、お客さん回りに一緒に行ってくれました。そのときの印象が一番強かったんですが、本当にもう、いいおやじ、頼れるおやじっていう印象ですよね。お客さんをきちっと立てながら、当たり前ですけど。お客さんも大和ハウスの常務が来るっていうことは、それは喜んでくださいました。特に地方では本社の常務さんが来るってことはあまりないので、すごく喜んでいただいたことをよく覚えてます。それに対して常務もきちんとお応えをして、丁寧に対応していただいたという印象があります。その中で、いろいろな会話のやり取りがあり、それでも本当に穏やかな感じでした。あとは、私が営業所長になったときに、会議で何回か会って、結構、きつく言われるケースはありました。
関根 樋口さんは赤字の大和団地を、本当に大変な思いをされて立て直して、それから創業者から後を引き継いでくれと頼まれました。そこから後の、大和ハウス全体の社長になられてからの、樋口さんとの接点、印象はどうですか。
山野井社長 それが、私は大和ハウスの所長になったときに、少し接点があったぐらいです。全国所長会議が年に1回あったときに、特に建築の営業所の連中を集めて、いろいろ薫陶を受けるっていうケースがあって、そのときにいろいろな意見を聞いていただきました。昔から「凡事徹底」は大事にされていましたね。本当にとにかく当たり前のことを当たり前に。約束の時間を守れ、お客さんと会うときはきちっとこちらの対応をしっかりと準備をしてやれとか。
 一番覚えてるのは、創業者もそうなんだけど、なぜを繰り返す。「なぜこうなったのか。」なぜを何回も繰り返して、原因、真因を追求しろということはよく言われました。なぜを3回、4回、とにかくそれを繰り返して、真因をつかめということは言われました。
 今のこの建築事業部という名称についても、当時所長会で意見交換をしたことがありました。建築事業部っていう名称の前に標準建築事業部、鋼管構造建築事業部という名称だったんですが、当時の全国所長会議の際に、別途鋼管構造建築事業部の所長会があったときに樋口さんが出席され、「鋼管構造建築で本当にいいのか?」みたいな話があって。「どんな名前がいいかね?」って、みんなに聞くわけです。ある所長が、「建築がいいですよ」って言って、建築事業部になったんです。いろんな意見というか、話を聞いてくださる社長でしたね。。

佐藤取締役 創業者の石橋さんの思い出というのは、入社前の新入社員研修が茨城県の竜ケ崎工場で1週間、泊りがけで行った、その最終日に訓示で来られたんです。そのときに最後に相談役と握手をするんですがまだ若かったので、思いっ切り握手したんです。そしたら逆に思いっ切りやられて、すごい力を感じてびっくりしました。それがずっと思い出に残っています。
 樋口さんは、私が入ったときもう既に常務で、各エリアごとに、月1回のヒアリングで来るんです。例えば、東北、北海道は一緒なので、持ち回りで、その事業所にそのエリアの人間が集められるんです。私は青森だったので大和ハウスは独立採算制なので数字を上げていればいいんですけど、上げてないと、もうとにかく、がんがんやられる。青森なんか、そんなに数字あげれるわけがないので。だから毎回、そのヒアリングが苦痛だった。という印象があるんです。
 私が入社3年目か、4年目ぐらいに、今はイトーヨーカ堂グループになるんですけど、アカチャンホンポのベビー用品のホールセールを青森にも進出するということで飛び込み営業したときに、アカチャンホンポの東京の常務の方が青森に来ていて、ごあいさつさせてもらったんです。しばらくしてから、突然、その常務から私の所に電話がかかってきて。「実は、八戸で計画してるんだけど、おまえの所でなんぼでやる?」って言われて。「なんぼでもいいです」って答えて、「何でもやります」って言って。ただ、そこからなかなか進まなくて6年か7年ぐらい、受注するまでにかかったんです。
 樋口常務に「どこか行くとこないのか」って言われたときに、「アカチャンホンポの物件、もう何年もやっています」と。「一緒に行ってやろうって」といっていただき、東京に来て同行してもらったんです。その終わった後に常務からごちそうしてもらった昼飯のステーキは今でも覚えています。
 そのとき常務からは役職の方と仲良くなるっていうことはあまり考えるなと。逆に今の担当していただいている方と仲良くなれって言われました。「それはなんでですか」って言うと、「その人たちはいずれ偉くなるから」って。そのときに人脈が生きるぞって言われたのを覚えています。樋口さんとはそういう思い出があります。

大和ハウスプロパティマネジメントの設立趣旨について

山野井社長 私は東京の建築事業部に転勤してきて、これまでと同様の営業スタイルで仕事をしていましたが、時代も単純な請負営業だけではなくて、土地から用意をして、建物を建てて、テナントさんに入居していただき、運営していくという、当時、経営参画型の事業をやっていこうっていうことで、新しい事業形態をやり始めたところでした。その最先端を走っていた東京建築事業部に配属になって営業していました。
 しかし私は、普通の請負営業を一所懸命やっていて、なかなか難しかったですが、ある程度の規模の工場などを受注していました。
 その後、今でこそ、誰でもやってるんですけど。開発事業を自分自身も一つのプロジェクトとして取り組もうと決意し、当時、自分の課で進めていた案件があり、土地を購入できなかったものの、借地をして、そこに物流センターを建ててテナントを付けようということで、土地の借地契約をしたんです。その直後に、リーマンショックが起り、いくら営業してもテナントが付かない状態が続き、このプロジェクトも頓挫しかけました。私はそのときに、当時の事業部長にパワハラまがいに、毎日のようにプロジェクトの進捗について詰められました。
 結局、そのプロジェクトの担当を変える話になり、同時に異動の話まで出ました。私は宇都宮の営業所長で行くのか、リレーション、顧客管理みたいなことをする部署に行くのか、っていう選択に迫られました。そのときにPM(プロパティマネジメント・不動産に関する資産管理を行う業務)を立ち上げるっていうところだったので、新しいことにチャレンジするのが面白いなと思って、そっちへ行ったんです。リレーション、顧客管理の部署に。
 当時、Dプロジェクト八王子という物流施設を流動化するので、そのPMをやることになりました。最初は「PM」いう業務が何か分からなかったです。当時の部長の下で、リレーショ
ンの仕事とこのPMの仕事をおこない、はじめはよく分かりませんでしたが、毎日勉強しながらPM業務を行っていきました。大和ハウスの物流施設の開発も進み、PMというのはすごく大事だっていうのが分かってきました。大和ハウスは、そのPMに関係なくどんどん開発していったものですから、そこの中で、我々ももちろん、人員も本当に疲弊するぐらい忙しくて、大変なことになっていきました。
 結局、東京建築事業部の一つの営業部の中でできることではないと、また、物件も東京だけの物件じゃなくて、全国に網羅してきたのでそれを東京で管理するのもおかしいっていうことになって、会社を作ってやっていこうということになり、2016年の9月28日に大和ハウスプロパティマネジメントを設立したのです。今年で、7周年です。
 設立稟議のとき、いろんな役員に説明に行きましたが、もう彼らは分かってて、こういうことが起こり得るというのは知っていました。いまさら、みたいな感じで受け止められました、むしろ遅いと。だからそれはすんなり通って、DHPMがスタートしていきました。
関根 まさに創業ですね。
山野井 そうです、まさに。だからラッキーですよ。私、新入社員に入ったときに、歓迎会かなんかの宴会で、みんなに豪語してたんです。将来、社長になるぞって。だけど、その思いはすぐ、頓挫しました。大和ハウスの社長には、絶対なれないと思いましたから。また、私は営業から管理に移った時点で、「私のサラリーマン人生は終わったな」と思いました、本当に、営業で生きてきた人間ですから。とにかく、宇都宮に行くよりもいいなと思って、そっちを選んだので、そこで頑張らないけないと思って、必死で頑張ってきました。そしたら、こんなことになって。社長は違うけど、実現したわけです。
関根 PMはテナント付けもやるんですか。
山野井 今はテナント開発部を14名に増やしてやっていますが、当時はそんな余裕はなかったです。とにかく管理をきちっとするっていう。それも現実にできなかったです。開発のスピードが、もうとてつもなく速くて、追い付かなかったです。こっちの人員も体制も、レベル、教育も。全て、足りなくて。
 基本的にはプロパティですから財産管理なんです。不動産としての財産を管理するっていうのが仕事です。われわれがやっているプロパティマネジメントは、あくまでも所有者側の立場に立ったマネジメントをするのが役割なんです。オーナーは大和ハウスだけじゃなくて、最初、開発するときは大和ハウスだったり、TMKとか、SPCの特別目的会社を組成して、そこが建築をして、発注元になったりするケースはありますが、後に売却しますので所有者としては大和ハウスの方が少ないです。
 自社で開発して他社に売却する。売却する出口をちゃんとつくっているわけです。そうした流動化の状況が進んできた中で、それを受け入れるのがリートであり、ファンドですが、そこのところのマネジメントをするのがアセットマネジメントという会社になります。当社はそのアセットマネジメントの指示で管理を行っているという、そういう構図です。

大和ハウスPMの急成長とそれを支える人財育成について

山野井社長 設立時9名だったのが今は122名です。8割がキャリア採用なので、大和ハウスのDNAを持った人は非常に少ないんです。そういう意味で、会社運営は一筋縄でじゃいかないところが悩ましいところです。
 凡事徹底は何となく分かる、当たり前のことは当たり前にやると。だけどその当たり前のことができない人がたくさんいるんですよね。だからそこをどういうふうにしたらできるのかって思いながらやっています。特効薬があるわけじゃないので、もう何回も言い続けるとか。本当に丁寧に説明して、分かってもらうしかないんですけど。もう、ここが一番苦労してます。
 今の時代の方って、報告ができない人が多いという印象ですね。悪いことも普通のことも良いことも、抱え込むみたいな人が多いです。すごく困ってます。だから今、組織やその仕組みの所を本当に変えていかなきゃいけないって強く思いますね。
 コロナになったときは募集をかけても、なかなか人が来ませんでしたが、ここ3年の間に、商業PM、レジデンスPMやってましたとか、不動産関係を経験している人が応募して来てくれます。全く物流をやったことないけど、PM経験ありますという方が、結構、来てくれて、近年に入社していただいた方は非常に優秀だと実感してます。
 去年は30棟ぐらい、一昨年は39棟、その前は20棟ぐらいを受け入れ、今年も20棟ぐらい受入れる予定です。これだけの開発件数は他社さんでは考えられないです。2026年の年度末までに57棟着工しますので、本当に顧客に満足してもらえるような管理を目指そうとすれば、今の組織人数の倍必要かもしれないです。

最高顧問樋口武男氏の思いを綴った ポスター

佐藤取締役 私と社長は大和ハウスを経験してきたので、その物差しっていうのがあるんです。この会社をつくって、その8割がたの方が全てキャリアになってます。一番感じてるのが、大和ハウスの常識がDHPMでは非常識なんです。変な話ですけど、社長とか私たちって、柔軟に対応できるんですが、大和ハウスのDNAを前面に出しちゃうと、みんなもう引いちゃうんです。
 それは当たり前だろうって思ってることが、もうキャリアの人たちにとっては、全然、そう思わないということ。とにかく忙しくて、やらされてる。
 その中でも、何とかよくしようとか、自分自身がそういう柔軟なマネジメントをしようっていう人数も増えてはきていますが、全ての人がそうでは無いので、そういう人たちも同じように引っ張っていかないといけないなって、そこが私の役目だっていうふうに思っています。
 そこが非常に難しいなと。口で言ったって無理ですし、かといって、背中を見て付いてこいっていっても付いてこないし。変な話ですけど、問題が起きたら、全部、俺が解決してやるっていうと、全く成長しないし。今、そこが、私のすごい悩みです。正直いって、ほとんど問題があったら、全部、処理していますので。

新日本ビルサービスの評価と期待すること

山野井社長 ある時私たちが管理している物件の防災センターの方の業務のやり方が悪くテナントさんからクレームがあったんです。そのテナントさんというのがホスピタリティ最高のイメージのあるオリエンタルランドさんでした。これをきっかけにオリエンタルランドさんにホスピタリティ管理についてご教示いただこうと思ったのがチャックスファミリーさんで、管理の対応について様々なレクチャーを受け、いろいろ教えをいただきました。
 その延長で、うちのいろんな決め事も一緒に考えてくださった。例えば社員憲章とか、そういった組織的なところも一緒に決めたんです。そういったご縁があって、いろいろな話になったときに、「良いビルメンテナンス会社いらっしゃらないですかね?」と言ったところ、社長の我孫子さんから、「いますよ!」って。新日本ビルサービスの社長、関根さんって元気のいい社長がいますよ!と言ってご紹介いただいたのが発端です。どんな人なのかなと思いながら、お会いするまで楽しみにしていましたが、期待どおりの人だったので。良かったです。
 最初はDPL三郷の施設管理からやっていただいて、非常に好評でした。価格もリーズナブル、直営部隊をもっていらっしゃる。そういった部分の丁寧さと価格の部分は非常にわれわれもありがたいことだと思っています。
佐藤取締役 御社にご招待いただき、いろんなことをやっているっていうのが分かった。今、それこそ、大和ハウスがこういうことをやりたいっていったときに、一番最初に思い付いたのが新日本ビルサービス。
 例えばDPL千葉四街道の商業施設開発の件もそう。まず、四街道に関してはマルシェのようなものを幅広く手掛けているので、私たちの知らない領域を十分、熟知されていらっしゃるんで相談してみようっていうことを社長にお願いしたということです。
 それと今回のDPL有明の清掃業務の件も、自分の所で職人さんを抱えている。価格競争が十分できるということで、今回、萩原部長にご相談して、コンペに参加いただいたきました。

仕事と人生において大事なこと

山野井社長 今でよく言う、「人間力」ですね。人生の師匠にも言われ続けてますけど。一流の人間にならなきゃいけないっていう。一流と言うと、ちょっと語弊があるかもしれませんが、第一級の人間です。いろんな分野の第一級。私たちでいえば、サラリーマンで第一級の人間になる。一流の人間になるっていうことは、人間力をどれだけ培って、大きくしていけるか。いつも私は思うのですが、人生の中で会社人生が一番大きいわけじゃないですか。
 仕事を通じて、一流を目指して人間を磨けと言っています。私もそういうふうに言われてきて、仕事の中で磨いてきたつもりなんです。
 その根っこは、何でもチャレンジすること。だからノーと言わないを心掛けてきました。あとはいろんなことに興味を持って、チャレンジしていくことを仕事を通じてやってきました。だからとにかく諦めない。ダメかなと思ったこともありますけれども、諦めない。これでもか、これでもかですよね。精神としては。
佐藤取締役 今思うと、青森を経験したっていうのがすごく役立ってると思うんです。とにかく本当に仕事のない所でしたので。当然、人数も。当時、上司が1人と、先輩1人と私だったの
で。結局、全部、自分でやるしかなかったんです。なので、教えられるっていうよりも、自分で考えて仕事をする環境だった。そこに24年間もいましたから。この長さが今の自分をつくってる。
 それこそ入った頃はお金のため、生活のためだったんですけど、ある時期から、大和ハウスの看板背負ってますから仕事はどちらかというと取れるほうだと思うんです。でもどこかの段階で、大和ハウスの佐藤さんに仕事を頼んでよかったって言われるんじゃなくて、「佐藤さんに仕事を頼んでよかった」って言われるようになろうって思ったんです。
 38年間の中で、大和ハウスじゃなくて、佐藤さんに頼んでよかったって言われたのは3件だけです。それが、正直いって大事にしていることです。
山野井社長 私はとにかく、この会社をまだ大きくしたいと思って。だからいろんなことを取り組みたいなと。
 まずは物流の周辺に関わるような事業を立ち上げていきたい、世の中に役に立つこととして、展開できればなというふうに思っています。
関根 地域に開かれたDPLですね。

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